宗旨―浄土真宗って?―

浄土真宗(じょうどしんしゅう)

「南無阿弥陀仏」(お念仏の教え)が人生の指針であり、浄土に生まれ往くことがこの一生に願われていると説く親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)が顕かにされた仏道。

(右は本伝寺にある親鸞聖人像)

本尊(ほんぞん)

「南無阿弥陀仏」の六字を本尊とし、その心を姿で表されたのが、阿弥陀如来です(左の写真)。阿弥陀如来とはすべてのいのちあるものを名を称えることをもって救うと誓われた仏さまで、迷いを生きている私たちにはたらきかけている心が立像で表されています。

 

親鸞聖人(しんらんしょうにん)

 承安3年(1173)に京都、日野有範の子として生まれました。平安貴族の時代から平氏と源氏が権力を争い合う武士の時代へと移りゆく時でした。

 

 9歳の時に出家し青蓮院で得度し、比叡山に登り勉学に励まれました。しかし、どのように学ぼうとも苦しみや悩みから出る道が見つからず、ついには山を下りることに。出家から20年の時間が過ぎていました。出家修行を辞めて向かった先は、吉水の法然さま(1133~1212)のもとでありました。そこで「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という教えに出遇われました。

 

 吉水の法然さまのもとには、身分を問わず多くの人々が集まり、お念仏を依り処としながら生活を営んでいました。しかし、この様子が勢いを増すにつれ、既存の仏教教団と摩擦が生じ、ついに承元元年(1207)に念仏禁止令が出され、捕らえられた者のうち4名は死罪となり、法然さまは土佐の国(高知県)、親鸞聖人は越後の国(新潟県)に流罪となりました。時に、法然さま75歳、親鸞聖人35歳のことでした。

 流罪となり罪人となった親鸞聖人は、「愚禿釈親鸞」と名告り、流罪の地越後で生活を始めました。妻の恵信尼公と、その土地に生きる民衆と共にでありました。やがて罪は解かれますが、しばらく越後で生活された後、42歳の時にご家族を伴われて関東へ向かわれました。関東では約20年間生活をされ、多くの人々にお念仏の教えを弘められたと伝えられています。

 

 60歳を過ぎた頃に京都に戻られます。そして、50代の頃より書かれていた『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)をまとめられたと伝えられています。これは「教・行・信・証・真仏土・化身土」の全六巻から構成されています。ちなみに日頃から親しみ深い『正信偈』は「行巻」末尾に書かれています。

 

 そして親鸞聖人は、弘長2年(1262)11月28日に90歳で亡くなられました。苦難の多いご生涯でありましたが、法然さまから阿弥陀さまの本願にたすけられていく道、お念仏の教えをお聞きし、浄土に生まれ往く人生を歩まれたご生涯でありました。(写真は親鸞聖人御影です)

蓮如上人(れんにょしょうにん)

 応永22年(1415)に本願寺第七世存如(1396~1436)の長男として京都の本願寺で生まれました。(左は蓮如御影)

 

 7歳の時に、生みの母と生き別れにならなければならないという悲しい出来事があり、その時「乱れた世の中に、親鸞聖人のお念仏の教えをたくさんの人に伝えてください」と言い残されたと伝えられています。

 

 43歳の時に本願寺第八世となり、人々にお念仏の教えを弘めていかれました。その結果、あらゆる人々がお念仏の教えに帰依することとなりましたが、比叡山の法師からはひどく疎まれ、終いには焼き討ちをかけられ、本願寺は跡形もなく消えていくということがありました。しかし、お念仏の教えを勧めることをやめることはありませんでした。

 

 京都を離れてからは滋賀県の大津や北陸の方へと居を移しながら、教えを弘めていかれました。現在の福井県にある吉崎御坊もその証であります。人々と交わる中で教えが語られていったことはもちろんですが、お手紙の形で弘めていったことに大きな特徴があります。このお手紙を「御文(おふみ)」と言います。

 また朝夕のお勤めを、親鸞聖人がお作りになった『正信偈』『和讃』を中心とされたことも忘れてはならないでしょう。

 

 蓮如上人は明応8年(1499)に京都の山科本願寺で、85年のご生涯を終えられます。

七高僧(しちこうそう)

 親鸞聖人は「正信偈」の中で、お念仏の教えに生きられたインド・中国・日本の7人のお坊さんの名を挙げ、それぞれの受け止めと、それへの感謝を書き記しています。

 龍樹(りゅうじゅ・インド(上段右))、天親(てんじん・インド(上段左))、曇鸞(どんらん・中国(二段目))、道綽(どうしゃく・中国(三段目左))、善導(ぜんどう・中国(三段目右))、源信(げんしん・日本(下段左))、源空(げんくう・日本(下段右)※法然さまを指します)

聖徳太子(しょうとくたいし)

 厩戸皇子(うまやどのみこ・574~622)が本当のお名前ですが、その徳を讃え、敬いを込めて「聖徳太子」と呼ばれてきました。権力争いが激しく、血がつながった者同士までもが殺し合う中で、仏教のこころに基づいた、日本で最初の憲法である「十七条憲法」を定め、お互いが安心して生きられる国作りをされました。

 

 親鸞聖人は、聖徳太子を「和国の教主」という風に、日本におけるお釈迦様であると敬い仰がれました。たびたび太子が奉られてあるお堂を訪ね、深い迷いの身が歩む道を問い尋ねるということがありました。